伝記物は二度と絶対に書かないと誓うことになる生涯唯一の駄作時代物作品。1993年の私の作品に興味と時間があれば読んでみてください。(都合上批評文を先にもってきました)(2000年6月11日)
1993年の筒井康隆評~文章がよくない。故意に歴史小説の文体を真似ようとしたためか? この内容なら現代的な文章で書いた方がよかっただろう。だが、どちらにしろ、人物の感情の吐露が大時代に過ぎ、解釈が単純素朴に過ぎる。これでは歴史小説雑誌への掲載もちょっと難しいだろう。熱がこもっているが、から廻り気味である。44点。
笑犬楼(←筒井康隆のハンドルネーム、いまだにこの名前の意味がわからん)
2000年の管理人~うーん、真剣に読んでくれているだけに、今見てもきついコメントです(^_^;)。ただ、1993年の管理人は肩に力が入りすぎ。テーマをちゃんと決めてやらないとただのいたずら書き。筒井さんに言われてもしょうがないね。
1993年の小林恭二評~習作風の手堅い作品です。取材もゆき届いているようで文句はありません。75点。
2000年の管理人~1993年の小林さん、フォロー恐れ入ります。1993年の批評会では、筒井さんが「おまえがやったんだろ?吐け」の役、小林さんが「かつどん食うか?」の役だったんですね。今気が付きました。
武家屋敷が立ち並び、北方に御幸寺山を臨める中の川沿いの一角に、清家則吉は住んでいる。
則吉は二、三年前から、原因不明の右脚の筋力低下を患って、症状の一進一退を重ねつつも松山中学に通っていた。
旧松山藩主の久松家では、明治十六年六月以後、藩内の子弟に育英資金を出しており、常盤会給費生になれば月額七円が支給されることになっていた。
この明治十七年春、則吉は久松家の常盤会給費生になることが決定しはしたが、上京をするかどうかどうかで悩んでいた。最前の病気のこともあるが、大学予備門に入る動機に一種引っかかりを感じていたのだ。
俺は升(のぼ)さんを追いかけているだけじゃないのか、と同様に大学予備門入学のため昨年上京した正岡常規を彼は考えていた。「升」とは常規の幼名である。
則吉の家の近隣に珊瑚樹が庭に咲き乱れている常規の屋敷がある。常規六歳のとき父の常尚が鬼籍に入ったため、すでに家主となっていた彼は、明治十六年春、この屋敷から上京して勉学にいそしんでいたのだ。
常規は、松山藩内でも有名な儒学者大原観山を母方の祖父にもっていた。観山は初孫の常規を目に入れても痛くないほど可愛がり、観山の他の孫である藤野古白とともに、松山での少年時代、観山自ら漢学、習字を学ばせていた。
そんな常規を憧憬の念で見続け、時折話もした則吉は文学に触発され、苦しい家庭事情のなかで勉学を続け、大学予備門入学の勉学のための常盤会給費金、月額七円をかち取った。
幸田露伴の「風流物」に感銘を受けて、小説家への道を目指すという確たる目標を掲げている則吉だったが、彼には大学予備門入学のための上京に次第に自信を失いつつあった。冷静に考えれば考えるほど、何のための上京なのか分からなくなってきている。上京して、大学予備門、そして帝国大学と、もし順風満帆に行ったとしても、小説家として成功する保障はどこにもない。それならばいっそのこと、直接、幸田露伴のような作家の書生となれば…、と思うのだが、それでは明治八年松山藩士族の家禄奉還の際、一時金として清家の家に約六百円給付されていたのを食いつぶしただけとなってしまう。則吉は、期待している父の三吉に申しわけが立たないと感じている。
正岡家は当時上級士族であったがため、清家家以上の千二百円が支給された。当時東京での下宿代が四円であったからかなりの額である。
考えあぐねた末に則吉は、明治十七年五月三十日早朝、三津浜の港に立っていた。
「苦しかったら、いつでも帰っておいで」母のマサは自分が出かけるわけでもないのに、よそ行きに使っている紺がすりの袖をしきりにはたきながら言った。
則吉はこれを聞いていないように、暖かい光が和いだ瀬戸内海の濃薄を操るのを見ていた。遠方で興居島が別れを惜しむかのように、くっきりと屹立している。
次にこの島のを見るのはいつだろうか、と則吉はふと思った。
話も尽き言葉少なになり、やがて父の三吉と弟の吉造は黙り込んでしまった。
ただ頷く三吉の切れ長の目の奥から放たれる鋭い何かに、則吉は驚いて目をそらせた。
汽船の豊島丸が、古びた木造の東屋の待合室横に着いた。幾人かの見送りが、出発する者たちと手を握り合い、激励の言葉が活気づく。
則吉の体が一瞬こわ張り、背筋をぞくぞくするものが走った。もう引き返せない、と則吉が感じたのはまさにこのときであった。
父の三吉には、帝国大学を卒業して必ず偉くなってみせる、と言ってあるが、それが主な目的でないことは則吉自身が一番よく分かっている。もしかしたら中退して、旧松山藩からの一時金の浪費をさらに早くすることになるのかもしれない。しかも、その一時金は清家の家の貴重な財産である。しかし矢が放たれた以上、死に物狂いで目の前の標的をひとつひとつ落としていくしかなかった。
「それじゃ」手荷物ひとつの則吉はこう言うと、そそくさと汽船に乗り込んだ。振り向くのが怖かった。父母や弟の寂寥感漂う表情を改めて見たくなかった。
則吉は悲しさに身震いし、涙を落とした。
汽船は神戸に着き、一泊後、神戸、横浜間の汽船に乗りかえた。当時は神戸を経由しなければ東京に出れなかったのだ。神戸から出た汽船は途中雨に降られ速度を落としたため、横浜に着いたのは予定より一日遅れの六月四日だった。鉄道で東京新橋駅に何とか行き着いた則吉は、松山中学時代仲のよかった先輩の井原耕作を訪ねることにした。彼も則吉同様、下級武士の出である。
耕作と正岡常規は同級生で、ふたりとも大学予備門に通っていたが、その間柄がどうなのか則吉には知るすべもなかった。少なくとも松山中学時代に、則吉の知っているふたりは、さほど親しい間柄ではなかった。
則吉は自宅が近所だった常規の下宿に厄介になることも可能であったが、そうはしなかった。則吉は、上級武士と下級武士という身分の引け目を、明治のこの時期でも親同様引きずっているため、耕作のいる久松家の長屋に行くことにしたのだ。
常規のところに行きたくないのにはまだ理由がある。それは、常規がすでに十二歳にして漢詩の五言絶句をつくったという才能への畏怖からであった。則吉は一つ歳下とはいえ、常規がいつもはるか前を歩いているということが、心のどこかでやり場のない反駁感をかきたてていた。その漢詩は次のようなものである。
『 「聞子規」
一声孤月光 啼血不甚門
半夜空欹枕 故郷万里雲 』
また則吉が、常規の目標が勉学を越えて中央政治にあると知ったのは、彼が中学で政治がかった演説を始めたころからである。時代はとっくに廃藩置県の後で、福沢諭吉の自由思想を受け継いだ草間時福(ときよし)が松山中学の校長になっているころだった。
このような常規の下宿に同居するのは、則吉にはどうしてもためらわれて仕方がなかった。政治にさほど関心がない則吉の性格は父の三吉譲りでもある。
三吉は明治維新で藩がなくなり、職を失い、家で酒を飲んでいることが多かったが、旧松山藩に仕えているときもさしたることをしたわけではなかった。そんな父であったから、かえって則吉は精神的に大きくなろうとした。しかし、根本的なところではやはり父の性格を受け継いでいるのを思い知らされるのだった。
井原耕作も常盤会給費生だったから、旧松山藩主久松伯爵の、日本橋屋敷の「書生小屋」と用人たちが呼ぶ長屋に住んでいた。
長屋は久松家屋敷のつづきであり、薄い壁で隣を隔てるだけの大きな靴箱のような部屋である。格子戸がひとつあり、饐えた臭いがある畳部屋は、とても人が住んでいるとは思えなかった。
こんな二間部屋に三人ずつの給費生が生活していた。常規は半年前までここにいたらしいが、部屋のひどさに絶えかねて出ていったと聞いた。
住所を便りに訪ねていくと、井原耕作はちょうど帰ったところだった。西日を受けて長屋には妖艶な色彩が落ち、東京というところでの則吉の行く手を祝福しているようにも阻んでいるようにも思えた。
「よう来たか!」耕作は、浴衣に兵児帯姿の則吉が入るやいなや、分かっていたかのように言下に言った。「お前の部屋は俺と同じだ」
耕作は畳の上に胡座をかいており、早く中に入るように手招きした。
その時である。次の間の障子が開いて、蓬髪をかきながら少し鼻の低い細面の男が入ってきた。
則吉はその男を見て驚いた。半年前ここを出ていったと聞いていた正岡常規だったからである。実は数ヵ月前金銭上の問題で帰ってきて、耕作と同居するようになっていたのである。
「おい、升さん、則が来たぞ」と、耕作が常規を見上げるように言った。
「疲れたろう、まあ、よろしく頼むよ」
常規のこの言葉に則吉は、思わず恐縮して何も言えずに一礼した。
こうして、則吉、常規、耕作の共同生活が始まった。そのうち、則吉が怖れていたように常規は、次第に則吉の心をかき乱し始めた。常規の器をさらに思い知らされたのである。常規と論議すればするほど則吉は、自分の勉学や物事への考えの甘さを露出させられた。
ところが明治十七年夏、大学予備門に合格した則吉の一方で、常規は留年して則吉と同級生になってしまった。
則吉は何か今まではるかかなたにいた常規が急に身近になったような気がした。
則吉が心のどこかで常規の留年を願っていたのを知ってか知らずか、常規は悲観する様子もなく、以前と同じように他のことにうつつを抜かしているという有様だった。
それには、高荷を背負ってやってくる美濃屋多吉という貸し本屋が多大な影響を与えていた。常規は、随筆もの、小説などを借りていたのだが、それらに混ざって和歌俳諧もあった。常規は発句が種々の絵の上に書き載せられているのをよく見て、則吉や耕作にも発句作りをさせようとした。則吉は予備門の勉学がとりあえずあるので迷惑だったが、今は同級とはいえ本来は後輩であるので、時折つき合って次のような発句を作った。
『螢火にひかれて迷ふ土手の道
三錢で石竹一本買へまする 』(注釈1参照)
こんな風に周囲の者たちを感化する常規に、則吉は尊敬ではなく、以前にも増して心の底で妬み、遠ざけたくなるのだった。
耕作たちはどう思うのか則吉にはよく分からなかったが、とりあえず常規を中心に集まっているみんなに加わった。
則吉は教科では数学が好きで、実際成績も良かった。常規は則吉の心のうちを知る由もなく、熱心に国文系の話をしたり、元先輩であるにもかかわらず、「済まないが教えてくれないか?」と、則吉に臆面もなく言ったりする。則吉は数学を常規に教えるときは、あたかも常規を子弟のように扱った。そうすることで今までの常規への劣等感を振り払いたかった。
しかしながら常規の落第をほくそ笑んだ則吉は、またもや彼との距離が拡大するのを実感せざるを得なかった。升さんはどうしてあんなに図太く、どっしりとしていられるのだろう、と戸惑い、自分自身を見失う日々が続いた。
明治十八年暮れ、則吉に大きな転機が訪れた。則吉は故郷松山にいるときから悩まされてきた右脚の筋力低下があったが、ある朝目覚めると右の腕と脚がほとんど利かなくなっていたのである。力を入れようとしても全くだめだった。
初の女医荻野吟子が医術開業試験に受かるのが翌年の三月二十日である時代、医術はまだまだ稚拙で、耕作が往診を頼んだ近所の医師は脳溢血と診断したが、なす術を持たず、安静を指示して帰っていった。
右半身麻痺で言語障害がないのは不幸中の幸いと言えた。
則吉は布団に仰向けになったまま、横に座った耕作、常規、予備門の他の友人の田代、中尾に囲まれていた。
「大丈夫さ、明日になれば良くなってるさ」
田代の言葉は部屋に拡散し次第に虚空に吸い込まれ、しじまが再びみんなを襲う。
「俺は必ずひとかどの者になってみせるぞ!」急にこう言った則吉に、布団を囲む者たちは面食らって、すぐには何も言い返せなかった。
しばらくして中尾が嗄れた声で言った。「そうだ、やれよ、四国から大学予備門
まで来ているのだから…」
則吉は心中穏やかではなかったが、やはり一方では、明日になれば、という気持ちがあったことも事実である。
当然のことながら、翌日になっても一週間経っても良くなる様子はほとんどなかった。帝大どころか、大学予備門中退の危機に瀕していた。則吉は、こう言う形で中退を迫られるとは夢にも思わなかった。小説家になるため中退するかもしれないということは、上京する際考えないでもなかったが…。
則吉は松山の家族にしばらく何も言わないよう、周囲の者を説得した。家族に心配をかけないということが、彼にできる精一杯のことだった。
誰もいない昼間の世話人に、常規の遠縁の老婆が呼ばれた。
明治十九年二月三日、則吉は二ヵ月休学していた大学予備門に、正式に退学届を出した。これでいずれ常盤会給費生から除外され、東京にいられなくなるだろう。
もっとも、退学届を出さなくともいずれ同じことになるだろうが、則吉は自分自身でけじめをつけたかった。
則吉は、健康な常規や耕作をうらやんだ。
「じゃ、行ってくるよ」常規は三月十日の朝、大学予備門に出かける際振り向きざまに言った。
「ちょっと今日は…」少し頭を枕から持ちあげた則吉は小さな声で言った。「いや、いいんだ」
則吉の顔は今まで見たこともないほどに青ざめ、布団から出た右手は振戦(注釈2参照)を呈していた。だがもうすぐ婆さんが来ることもあって、常規はあまり追求せず出かけていった。生活の障害となっていた則吉に、潜在的に憎悪に似た気持ちをいだいていたことも手伝った。
耕作は則吉のいるこの長屋に帰ることは、最近ほとんどなくなっていた。
その日の昼前、常規が老婆から訃報を聞きつけて大学予備門から帰ったとき、則吉は安らいだ顔で常規を迎えた。老婆が来たときは既に息絶え、一人で鬼籍に入ったことを知って常規は泣いた。
常規は今朝の自分の行動に臍をかんだ。出かけていなければ、医師を呼ぶことができたし、少なくとも孤独のなかで死なせることはなかったのではないかと。
数え年二十歳の常規は、死にもの狂いで入棺まで葬儀をとりしきった。
三月十二日、常規は松山の則吉の父母に手紙を書いた。
『前略
御子息の死は小生にも落ち度あると思います。なぜなら小生は、御子息の苦しそうな表情を三月十日の朝拝見し、彼の言葉の裏を憶測していたにもかかわらず、そのまま出かけていってしまったからです。
御子息は生前、病床でこう申しておりました。必ずひとかどの者になってみせる、と。
小生は御両親にお誓い申し上げます。小生が御子息の分も名前を世に知らしめ、必ずや、ひとかどの者になってみせます。小生は一生このことを背負って生きてみせます。 草々
清家三吉、マサ御夫妻様
明治十九年三月十一日 正岡常規 』
常規は則吉が生前、しゃにむに何かをしようと密かに考えていたことはそれとなく分かっていたが、それが小説家志望の懊悩であり、常規への畏怖、怨嗟の念であったということは、今となっては知るすべもなかった。あるのはただ、常規が背負うことになってしまった、則吉の死への責任感だけであった。
常規自身は、どうして則吉との友情がこんなに薄かったのか不思議だった。則吉の常規に対する態度がいつも醒めたものであることを感じはしていた。
則吉はもう死んだはずなのに、常規の脳裏の則吉はどんどん存在感が大きくなり、社交辞礼半分で書いた則吉の両親への手紙は重さを増すようになった。
この事件を契機に、正岡常規は人生のはかなさと、身を切られるような後悔の念を思い知らされた。
元禄の松尾芭蕉、享保の河端五雲、寛政の栗田樗堂、百済魚文らは俳句で有名だが、常規の故郷松山はその俳句が割合盛んに行われている土地だった。常規は貸し本屋に借りていた発句に食指を動かしたのを最初に、明治二十年、一時帰郷した際、大原其戎という宗匠を訪ね俳句にすっかり魅せられてしまった。
大原其戎は「真砂の志良辺」(注釈3)に、常規の俳句を載せてくれた。
『虫の音を踏みわけ行くや野の小道』
明治二十二年五月九日、帝大文科大学の学生だった常規は、肺結核のため喀血した。胸部が魔物に引きちぎられそうに締めつけられ、大量の血を吐いたのだ。
常規は数年前の則吉を思い出していた。
自分も永くはないだろう。そんな考えが頭を閃光とともに駆け巡り、常規は何とか逃れたくなる。それまで俳句の新しい道を粉骨砕身に模索していた常規は、なぜ則吉のためにも名を世に出そうとしたのか分からなくなっていた。早くせねば…。
常規は雅号を「子規」とした。「子規」とは、血を吐くように鳴くホトトギスのことである。運命だったかのように、その雅号は常規が初めて作った漢詩の題名「聞子規」と妙な対応を示していた。
子規は俳句の道に専念するため、明治二十四年秋、帝国大学を中退し、生活のためT新聞社の記者になった。しかし時間のロスを考えてこうした彼だったが、やがて日清戦争に行くことを決意するのだった。義理堅い子規は、文学や則吉だけでなく、国に対しても尽くそうとしたのである。
「天国の則よ、何もしてやれなかったが、今の俺のために時間をくれ」と合掌し、明治二十八年三月六日、従軍願いを出して近衛師団の従軍新聞記者として中国に渡ったが、四月十七日に講和条約が調印され、実戦を見ることは結局なかった。
帰国した子規はすっかり衰弱し、再び喀血して病床につき、新聞記者としての記事を松山の自宅でしか書けなくなった。子規の脳裏には再び則吉の姿が浮かび上がらざるを得なかった。しかしその姿は生前とは違って、笑顔となっていた。子規が病床のなかで、俳句や小説の原稿を書くのは一日のうちわずかな時間に限られた。
咳が出、顔面蒼白となり、胸を中心に締めつけられる。一度こうなれば布団のなかでのたうち回り、エビのように体を丸めたり伸ばしたりして、血のついた敷布団にしがみつく。死んでしまいたい、と思うが、鮮やかに則吉の姿が脳裏に映り、励まされ、仕事はどんどん進んだ。
従来の俳句は形式や季語ばかりにこだわり、生活に密着していない無感情なものが多かった。子規はこんな俳句に息吹きを送りたかった。
しかし無情にも肺結核は進行し、子規という人間そのものまで血の飛沫にしようとしていた。
「升兄さん、ちょっと行ってきます」妹の律が出がけに振り向きざまに言った。かつて清家則吉が死んだ朝、子規がそうしたように…。
「行かないでくれ!…待ってくれ、則、則…」
子規には律と則吉の区別がつかなかった。
「兄さん、どうしたの?兄さん!」律は子規に駆け寄った。
急に右脇を押さえ込んだまま断末魔にのたうちまわり、歪んだ表情で号泣する子規の体に律は触れようとするが、手を何度もはたかれるだけだった。
「殺してくれ、頼む、…うっ、お、俺を殺してくれ!」
律はいつもの発作の比ではないと悟って、子規に抱きついたまま頬の涙を抑えることができなかった。
子規は則吉の両親に誓ったことを充分に果たしていた。新式の俳句をほぼ確立し、その後高浜虚子らは、それを受けついだ。病床につきながらも、新しい俳句の基礎を作ったのである。
明治三十五年九月十九日、正岡子規は清家則吉のもとへ行った。
辞世の句は、子規がもがきながらも直筆で書いた感情俳句の集大成だった。
『糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
おとといのへちまの水も取らざりき』
則吉に会った子規の死に顔は、うっすら笑っているようであった。
(了)
◎正岡子規、その周辺については充分取材しているが、本作品はあくまでもフィクションである。清家則吉のモデルである清水則遠との死別は状況が違うことを加筆しておかなければならない。
<注釈>
(注釈1)清家則吉のモデルである清水則遠の発句を、参考文献(5)「筆まかせ」より引用した。
(注釈2)中枢疾患特有の小刻みな震えのこと。
(注釈3)「真砂の志良辺」の第九十二号に掲載された。
<参考文献>
(1)「友人子規」柳原極堂著、博文堂書房
(2)「伝記 正岡子規」松山市教育委員会文化教育課著、青葉図書
(3)「正岡子規と清水則遠の死」蒲池文雄著
(4)「正岡子規 資料と研究」愛媛大学子規研究会著
(5)「子規全集第十巻~筆まかせ」正岡子規著
(6)「花埋み」渡辺淳一、角川文庫
書簡を見せてもらった子規記念博物館、初対面の私のために古い文献を親切に捜していただいた愛媛県立図書館の皆さん、疾患を学んだ愛媛十全医療学院、従軍願い、その他の書類を書き移していた愛媛大学子規研究会の皆さんに感謝の意を表明します。