歩行と精神

 高校生以来、私には歩くことができなかった時間が、2度に分けて、通算6カ月くらいあった。今では「歩いている」ようにみえるが、私の意識のなかでは、左脚を出すことを常に考えねばならない。したがって、考え事をするときには立ち止まったり、座ったり、歩行速度を低下させねばならない。と、こういう前置きをしておく。
 歩けない人に歩ける人が「かわいそうだね」というのを失礼だと否定する人がいるが、「かわいそうだね」という言葉(言葉自体が良い悪いは別として)は歩けない人があえて受容しなければならないハードルであると思う。何事も受容してから始まるのだ。
「私は脚が不自由でも一度も不幸と思ったことありません」と言う人がいるが、私に言わせれば何を言っているのかと思う。理学療法士として特に移動動作に力点を置いている私をはじめとする者は、不幸でも何でもないことに命をかけているのだろうか?もし、本当に不幸でないと心の底から思っているのなら、心を病んでしまっていると思う。
 また、障害にかかわらず、男はどんなお年寄りでもそうだと思うが、女性に「それとなくいたわられる」のが一番精神的に悪い方へ利くと思う。階段を上ったらこけそうな男に、音もなく背後から近寄り「それとなく」手を差し出してはいけないのだ。もしするのなら、女性はだれにもはっきり分かるようにいたわらなくてはならない。「手を貸しましょうか?」と斜め前から大きな声で言わなくてはならない。日常的なら別だろうが。分かりやすい例では、男がタバコを吸っていて灰が落ちそうになっているとき、後ろから近づいて「さりげなく」口からタバコを抜き取り灰を灰皿に入れて口に「さりげなく」もどしてはいけない。それをやっていいのは、本人が頼んだときと、わざとらしいお水のおねえちゃんだけである。
 車椅子の人には親切にしなければならない、と人は言う。それは正解だろうか。
 私は車椅子の人がある程度若い場合、本人から助けを求めない限り、助けなくても良いと思う。いわゆる「余計なお世話、逆差別」というやつだ。
 私たちは肩が凝っていそうな知らないおじさんの肩を勝手に揉んだりするだろうか。
 こういったことから、人により大小はあろうが、立ったり、歩くというのは移動という本来の目的以外に、全身に対する活性化や精神的状態に影響を与えているのは事実である。

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